岸井 洋一さん(平瀬川流域協議会会長)

岸井洋一さんの 生い立ち
 1943(昭和18)年8月25日、当時は農家が78世帯しかなかった現長沢の生田8276番地、昔ながらの藁葺屋根の農家の4人兄弟のご長男として生まれた岸井洋一さんに、幼少時代からの半生を語っていただいた。

小さいころの悲しい思い出
 小学校入学前にお母さまが亡くなり、父富蔵さんの男手でひとつで育てられ、長男として弟妹たちの面倒を見ながら、ともに大きくなった。小学校の遠足には親御さんがお伴してお昼の弁当は家族で食べるのが当たり前なのに、いつも先生と一緒に食べている自分に比べて周りの同級生を羨ましく思ったと語る岸井さんは、この時『ほかの同級生に負けるものか』というお弁当に詰まった思いがあると。
 少年時代のこの根性をバネにして、今に至っていると話される岸井さんの人柄がひしひしと伝わってきた。

畑 にて
 祖父母もお父様もまだ暗いうちから農作業に励んでいたという。家族の朝ご飯をはじめ、祖父母・お父様のお昼の弁当は長男の岸井さんがコメをといで炊くところから賄って畑まで届け、弟妹にも食事の世話から家事もろもろ、頼れるお兄さんぶりを発揮。
 農作物はお父様が川崎方面まで今のように道路も整備されていない道のりをリヤカーに溢れんばかりに野菜などを積み込んで卸に出かけ、驚いたことには一日に2往復されたことも!!

土地の提供
 前述の岸井さんの畑は、西長沢から餅坂・中の台・原店までの一帯に及び、今でこそ舗装された道路に様変わりしているが、当時、近い将来の人口増加にともなう流入を見越して『長沢の発展には道路の整備が不可欠である』との先見性から、父・富蔵さんは地元の名士の関口春吉さん、松澤鶴吉さん、末吉達さんらに計画をたてて道路整備の重要性を訴え、この四方の土地の提供によって現在の道路が開通したという。また、地元長沢の方々が手弁当で、リヤカー、スコップで、道路づくりに協力したそうだ。
 われわれが日常何気なく通っているバス通りが、この4人の英断と長沢の農家の方々が知恵と総力を結集して整備していただいた長沢の道、もとよりこの四方の土地の提供なくしては今の交通アクセスに恵まれた長沢はなかったと言っても過言ではなく、あらためて感謝の念。

伊勢湾台風
 岸井さんは現在は“岸井梅園”のオーナー、もともとはトマト・スイカ・ナスなどの栽培農家であったが1959(昭和34)年秋の「伊勢湾台風」襲来によって畑が1mほどの土石流に遭い土地が荒れ果ててしまった時、父の富蔵さんは思い悩み『コンスタントに実を付けるものを育てよう』と一念発起し『梅』の植栽と決め、始めは約170本の苗木を植え、それから経験と研究を重ねて今日まで梅園経営は60年超、今では2代に亘って「梅博士」と呼ばれている。

岸井梅園
 株は当時のまま変わらない。後方に“特別養護老人ホーム”が建てられたため狭くなって幾分、本数は減り現在は120本ほどで収穫量は、その昔は4トン、現在は7・8種類で3トンほどだそう。
 また梅園についてはお花見などの要望があれば予約の上、開放している。このほど開催された【梅DE まちコン】のオープン会場として「梅狩り」が盛況理に行われた。

岸井さんの想い
 時代を先取りする高い先見性のもと知恵を活かし、長沢を引っ張ってくれた先達のおかげで今自分はここに居られる、そのご恩は決して忘れてはいけない。先代の教えは今に生きている。

若者へのメッセージ
 『先人の教えと知恵を生かしそれを土台にして、現代に即した価値観を肉付けしてより発展していってほしい。一人では生きていけない、お互い支え合って生きていかなければならない。』と、笑顔で話してくださった、岸井さん。
先人の知恵を学ばしていただきます。長時間、貴重なお話をありがとうございました。

 [取材日] 2015年11月
 [インタビュア] 平井将太さん/原山昇さん
 (注)内容は、取材当時の内容です。